新田荘ゆかりの文化財
新田荘ゆかりの文化財
二体地蔵塚古墳(世良田町1578-1)
この古墳は、世良田四十八塚と称する一基の円墳です。のち、鎌倉時代末期に幕府が使者2名と大勢の家来を向けて、世良田の人々に莫大な税金の差し出しを命じました。新田義貞はこの仕打ちを怒り、使者を捕らえてその1人の首を打ち、さらし首にしたのがこの地と伝えられています。
金龍寺(金山町40-1)
金山城主横瀬氏(由良氏)の菩提寺。境内には、横瀬国繁から由良成繁に至る歴代の金山城主の五輪塔や新田義貞の供養塔(いずれも市重要文化財)があり、本堂には新田義貞の木造が安置されています。
伝 新田義重の墓(徳川町388-6)
新田義重の子義季は、新田荘の徳川・世良田などを譲られ、徳川に館を造り、徳川氏を称したといわれます。
宝塔(伝新田義重の墓)は、天神山凝灰岩製で、相輪は欠損していますが、現存部は110cmです。塔下より古瀬戸四耳壺が出土しています。
岩松尚純夫妻の墓[尚純萩公園](岩松町661-2)
岩松尚純は、明応3年(1494)に金山城主になりましたが、家臣横瀬氏(のちの由良氏)との抗争に敗れ、家督を夜叉王丸(昌純)に譲り、岩松の地に隠遁し、静喜庵と号し連歌の世界に生きました。
岩松八幡宮(岩松町248ほか)
新田義貞が、京都大番のおり石清水八幡宮に参詣した時、松の実を拾い持ち帰り、この地に蒔いたところ松の木が生えたので、犬間郷と呼ばれていたのを岩松郷と改め、八幡宮を建てたといわれています。
戦国時代には、金山城主岩松尚純の子夜叉王丸が、代々の慣例により、八幡宮で元服し、昌純と名乗った記録があります。
旧常楽寺「石塔群」(新田木崎町1664)
常楽寺は、明治25年に蓮蔵寺と円通寺と合併して、上田島町に移転し、墓地だけがこの場所に残されました。墓地には年号が刻まれた石塔群が多く残されています。石塔は宝篋印塔3基と五輪塔3基で、これらの内4基に北朝の年号が刻まれています。
伝 薮塚氏の五輪塔(薮塚町2203)
新田一族の「藪塚六郎朝兼」及びその累代の墓と推定されている4基の五輪塔です。この五輪塔は、大正2年(1913)、東武鉄道桐生線敷設の際に、小さな塚を切り崩したところ、出土しました。付近には、“元屋敷”の地名が残っており、藪塚氏の館があったと推定されています。
三島神社(薮塚町1043)
藪塚町の水田地帯にある神社です。伝承によると1190?1198年に新田義房が伊豆三島神社を勧請して祀ったといわれています。すぐ西には「元屋敷」の地名が残っており、新田一族の藪塚氏(岩松氏庶家)の館があったと推定されています。