史跡・文化財一覧
新田荘遺跡
新田荘は、平安時代末期の12世紀中頃に成立した荘園です。源義国(源義家の子)を父とする義重は、太田市西部の早川流域・石田川流域を再開発して19郷を支配下におきました。義重はその後さらに37郷を開発し、太田市西部を荘園化しました。新田義貞は義重から数えて8代目にあたります。
国指定史跡の新田荘遺跡は、新田荘に関わる館跡を中心とした円福寺境内・十二所神社境内、総持寺境内、長楽寺 境内、東照宮境内、明王院境内、生品神社境内、江田館跡、反町館跡、重殿水源及び矢や太神水源からなっています。
円福寺境内(別所町600)
円福寺は、新田氏4代の新田政義が、鎌倉時代にひらいたと伝える寺で、境内には石層塔や五輪塔など20基余りからなる新田氏累代の墓があります。境内の大半は群馬県内第3位の規模を誇る大型の前方後円墳茶臼山古墳が占めます。
十二所神社境内(別所町600)
十二所神社は、円福寺本堂の西、茶臼山古墳の後円部墳頂近くにあります。創建された時代は不明ですが、中に全部で16体の神像が安置されています。
そのうち5体(市重要文化財)には正元元年(1259)の銘があり、そのうち1体には、円福寺初代住職「阿闍梨静亳」が現世安穏と極楽往生を祈願して、10月5日に造像した旨が刻まれています。
長楽寺境内(世良田町3119-7)
徳川氏の祖といわれる新田義季(義重の子)が、鎌倉時代の初め高僧の栄朝を招いてひらいたのが長楽寺です。境内には多数の堂塔があり、多くの宝物は隣接する新田荘歴史資料館に展示されています。
東照宮境内(世良田町3119-1)
徳川3代将軍家光のとき、日光東照宮の大改築が行われ、そのとき日光にあった奥社拝殿を長楽寺境内に移したのが現在の東照宮です。明治8年(1875)に長楽寺から分離しました。境内には、長楽寺にかかわる中世遺構が存在します。
明王院境内(安養寺町200-1)
明王院はかつての安養寺館の跡であり、安養寺殿と呼ばれた新田義貞が館を構えていた場所と推定されています。境内には新田一族の五輪塔などがあります。義貞の鎌倉攻めの際の「新田触不動」伝説が残っています。
生品神社境内(新田市野井町647)
元弘3年(1333)に、新田義貞が鎌倉幕府討伐のために挙兵した場所といわれています。境内には、挙兵伝説にまつわる旗挙塚や床几塚があり、毎年、挙兵日である5月8日には、鎌倉に向かって矢を放つ「鏑矢祭」が行われています。
江田館跡(新田上江田町925ほか)
反町館跡とともに代表的な館跡で、堀や土塁はほぼ築造時の姿をとどめています。南北約100m、東西80mで、館跡の東西の中ほどに堀が屈曲した部分があり、南側と東側の二カ所に出入口である虎口があります。鎌倉攻めで活躍した江田行義の館跡と伝えられています。
反町館跡(新田反町町896)
新田荘における代表的な館跡で、南北120mの凸字形をした館跡の周囲に水をたたえた堀が取り囲んでいて、新田義貞が居住していたと伝えられています。現在は照明寺の境内となり、反町薬師として親しまれています。
湧水池
新田荘には古くから多くの湧水地があり、新田開発の上で大きな役割を果たしました。